――オリジナルを作り始めたのは時期的には72、3年ですよね?
柴山 うん。突然作り出した。もう解散しようかなっていう時に、やめる前にしてなかったのってオリジナルだけだったんよ。で、作るようになった。最初はつまんない歌詞しかできんかった。それでブルースのダブル・ミーニングのやつを作って、配置してたり。詩をかいてまこちゃん(鮎川誠)に渡したら、あの人勝手に曲を作って。ものすごい私ずかしかったよ、最初は。幼稚って言われたもん、「キングスネイク・ブルース」とかね。(中略)まこちやんのセンスとかが良かったんだと思うよ。洋楽とか邦楽とか、あんまり拘らず、自分の中にあるもののひとつとして作ったのが。自分達で発想を変えてやっとったら原曲より良くなる場合があるんだよ。消化しきったっていうことだと思う。お互いを理解して、それを消化する力がすごかったんじゃないかな?
――面白いのは、よく布団の中で思いついてたっていうので‥・(笑)。
柴山 いつも考えてたから。曲のこと、誰も知らんようなレコードが欲しかったし、見つけ出したし、こんな曲がやりたいとか、いい詩がかきたいなぁとか……。年がら年中そんなことばっかりしか考えんかった。
――歌詞をみてもブルースが、体でわかってるつていうのを感じるんです。消化きれてるということなんでしょうか?
柴山 たぶんそうだと思う。ジョン・リー・フッカーとか、フレッド・マックウェルとかマディ・ウォーターズとか南部のデルタ・ブルースみたいなのばかりしおったから。強がってたり、ものすごい悲しかったり、セックスの歌とかね。黒人が自分の中で表現できることはそのことぐらいしかなかったのかもしれんね。人種差別とかの問題でね。よそのバンドの歌詞とは全然違ったし。ほんとにバカみたいな、地味な詩だもんね(笑)。あんなシンプルなの、今書けないもん。あれは神様がくれたんじゃないかな。(中略)ブルースってギター用の音楽っていうところがあったでしょ? だけど、たまたまブルースの曲を歌いおった時にそうじゃない曲ばかり歌っとって。マディ・ウォーターズの曲とかってほとんどギターソロとか入ってないでしょ。それにブルースだけじゃなくて、50年代のヒット・ポップスとか、コニー・フランシスとかああいうのを平気で聴きよったけんね。ライヴとかでも「Vacation」とかしとったけん。いろんな要素が柔軟に入ってきたんだね。
――この間のライヴもまた音が進化してたと思うんです。都はるみじゃないけど、一番脂がのってるんじゃないかと思って。
柴山 でも歳とった方が歌が上手、になったとは思わないけど……。ちゃんと歌えるようになったと思うよ。解釈の仕方に余裕がでてきたんだと思うね。昔は無我夢中でやっとったから。一時やめとったのがよかったのかもしれん、歌を。その時にいちファンとしてレイ・チャールズとかデヴィッド・ボウイとかいろいろ聴いとったわけね。それが一番自然に吸収できたんだね。黒人の歌い方のマネとかする前に自然に入ってきて、また歌い始めたら、全然違うヴォーカルになったんだね。
――サンハウスで3曲だけ選べっていわれたら?
柴山「キングスネイク・ブルース」と「あて名のない手紙」と「ビルズ・カブセル」かな? あと、「カラカラ」とかかな
−ずっとやり続けている人にしか訊けないことなんですけど、やっぱり一生やり続けるんですか?
柴山 だってもう他に定職できんけんね(笑)。サラリーマンになるにも、もう歳だし、周りの人に見離されて一人ぼっちになったら歌おうと思っても歌われんけん。理想としてはずっと歌おうかなぁと思っとる。ここまでやると思わなかったね。
――若い人たちに何かありますか?
柴山 よくきかれるんだけど、答えきらんのよ。音楽のことに関していうなら、メジャーになって、レコードを出すためにバンドをつくろうというんじゃないところで音楽に携わっていったら、また違うかたちの音楽っていうものが自分たちなりにできるかもしれない。自分たちにあるもので音楽を作っていくようにすればいいんだと思う。あと、若い人はもう少し強く、男らしくなって、女にあまり舐められんようにしてくださいとしか言えんけどな(笑)。
update 2000/09/24